アイヌ民族の事について少し

写真提供は旭川「川村カ子トアイヌ記念館」
アイヌ民族の詳しい資料・生活様式など展示しています。

●アイヌとはアイヌ語で人・人間と言う意味で,昔、北海道・樺太(サハリン)・ 千島・カム チャッ カ半島・日本本州の北端部に広く住んでいたが、江戸時代 の終わり頃から和人 との同化など により人口 が急激に激小し、今では純粋 なアイヌ民族は北海道に少数残っているだけである。

←アッシ
(木の皮の繊維を織ったもの


            アキリ→
(主に彫刻に使われた小刀)


17世紀の初め、一藩を形成した松前藩は、蝦夷地を和人地から区別し、その中でアイヌの自由に任せておいたがアイヌとの交易をおこなった家士や漁場請負の商人の中には、権力をたてに、圧政を働く者もあったので、1669年(寛文九)にシャクシャインの戦いなどの反乱を招いたりした

体毛は男女とも非常に多く、世界中で最多毛の
  民族と言われている。



●女性は入れ墨を口の周囲と前腕と手の背面にもつ。
  この入れ墨の意義は美と成熟の象徴であり、結婚前に
  完成されるべきものであった。
  
今日では純粋に民族ばかりでできているコタン(集落)は無く結婚
  養子制によっていちじるしい混血がおこなわれている。
  衣・食・住もまったく和人化し、アイヌ語は死語にひとしくなっている。
  風俗・習慣も、ただ観光のために、それを業とする人々によって維持
  されているだけで、それすらも日とともに原型が忘れられつつある。

和人とによる戦い
◆コシャマインの戦い
1456年、和人のかじ屋がアイヌ民族の少年を殺した事をきっかけに道南のアイヌ民族が和人に対して一斉に立ち上がり、翌57年、コシャマイン率いるアイヌ軍が和人の武将らの居館のほとんどを落としたが、松前藩祖とされる武田信広の策略でコシャマインが討たれ、、アイヌ軍は敗北し、和人の支配は強化された。
◆シャクシャインの戦い
沙流地方と静内地方のアイヌの狩猟採集の場(イオル)をめぐる争いに端を発し、アイヌ民族と松前藩の争いとなり、1669年、静内のシャクシャインが現在の白糠から増毛の辺りのアイヌ民族と一斉に立ち上がった。戦いは互角で和ぼくと成ったが、酒宴の席上でシャクシャインが謀殺され、アイヌ軍は敗れた。
◆クナシリ・メナシの戦い
1789年、場所請負人らの横暴に耐えかねて、クナシリ(国後島)・メナシ(釧路以東から根室、知床半島付近まで)のアイヌ民族が立ち上がったが、松前藩に制圧された。アイヌ民族の和人に対する組織だった武力抵抗の最後となった。