8回 「札幌 下田塾」講義録

 

 五月は講演会がなかっ たので丁度話せなかったのですが、皆さんはこういう患者さんに出会わなかったでしょうか。本当に全ての関節がことごとく痛んで力が無くなるという状態の患 者さんにです。お手元の資料の一年の季節を書いたこの資料を見て下さい。この夏の右と左の図で非常に大切なことが(添付図1)書いてあります。土用は年に四回あるのですが、その中で一カ所だけ、夏 に入る土用を過ぎた後に、脾の大絡と書いてあるところがあります。ここが非常に重要なところです。小満という時期に脾の大絡に入るというのはどういう事な のかということです。土用というのは、脾が用いられるということで、普通の季節はこの土用の期間だけ脾が用いられるのです。ところがこれを見れば分かる様 に、この夏の手前の土用の時期というのは、清明の時期から栄血の支配が脾の子分である足の陽明に、その後足の大陰脾経に入っているのです。要するに大きな 気の部分である衛気を脾が支配しているだけでなくて、栄血の部分である体を養う部分も脾が一生懸命働かなければいけない時期なのです。そして実は脾にある 程度元気を与えてくれるのは、五行の相生関係から言うと心なのです。心が脾に元気を与えてくれるはずなのですが、にもかかわらず、まだ心はたち上ってきて いないのです。丈夫な人は良いのですが、脾に弱点のある人は、一年中でこの時期に非常に脾に負担のかかった状態が出てきてしまうのです。そう考えた時によ うやくこの図が分かったのですね。脾の大路というのは何だろうという事が僕は長年分からなかったのです。脾の大絡の時に始めて反応して表に出てくるのが、 実は大包という穴です。これもずっと分からなかったのですが、経験的にやっていると脾の大絡、即ち小満のときに百節がことごとく痛むという患者さんが毎年 出てくるのです。その時、大包という穴は脇の下で乳腺の高さあたりにあるのですが、明らかにそこに、ちょっと触っただけで飛び上がる様な痛みが出て来るの です。だから通常の針に加えて、大包の部位に針をすると、百節ことごとく痛んで力を無くしていたのが、ほとんど即座にしやんとなります。まさに論より証拠 なのです。対応する大包が反応しているのです。

素問霊枢には記載がない のです。それは何なのだろうと考え続けていてやっと分かったのがこの図(添付図)によってなのです。要するに大包の謎が解けて、 ようやく五臓六腑が分かったという事です。いつも言う様に本来は五臓五腑なのです。人間の構造で外に反応する肝の部分即ちセンサー部門は軽くしてあるので す。心は一番大切なものです。人間の生命が最初に始まるのは腎なのですが、生き始めた時の生きている根源というのは心なのです。心というのはほとんど脳で すね。それと冠血流と脳血流を支配しているのが心です。ショックの時に最後まで保たれる血流がこれなのですね。ショックの病態というのはここを保つために それ以外の手足を切り捨てるのです。現象面ではショックの時に腎不全になったり、末梢循環が落ちていったりするので、そこを問題にして治療していきますけ れど、現実には生体というのは脳血流と冠血流を守っているのです。これが心です。そして心は非常に大事だから、さらにそれを守っているのが心包なのです。 心包と心は同じだ、といろいろな本に書いてありますが嘘です。心とそれを守っているものとは違います。心を守っているものは、心が大事だから、いかにも同 じ様に見えますが違います。心そのものはあまり外界の影響を受けませんが、心包は肝の影響を受けますので結構外からの影響を受けます。心配事があると動悸 したりするのは心包の反応ですね。本当に心配事が重なって心だけで反応すると、眠ってしまうとかそういう反応が出ますね。脾というのは五臓に栄養をあげて いるのです。この五臓を大きく包んでいるのが大包なのです。でも包んでいるだけで機能していないので、臓腑に含まれていないのですね。そして大包の外にい ろいろな腑があって、それら全体を包んでいるのが三焦です。三焦もいろいろな考え方があります。三焦の機能というのは本によって全部違うでしょう。心包と 心の関係とよく似ているのです。心包は心を守っているから心に似た機能を見せるけれど、心そのものではありません。三焦は五臓五腑を包んでおり、ある意味 では五臓五腑を守っているから、そのすべての機能と関わるけれどもそのものではないのです。一年に一回、この時期に大包の存在というのを手ごたえで知るこ とが出来ますので、将来、針をするようになったときに確かめてみて下さい。針の話はあまりしませんが、ある程度、薬の話が進んでいったら、少しずつ針の話 も増やして行きます。ただ本質的な構図はこうなっているんだぞということですね。

 もう一つ話そうと思っ ていたことはカプセル剤についてです 止めて下さいね。ごくまれに粉薬は一切ダメと言う人がいて、これは仕方ないのです。また漢方薬はどれもダメという人 もいますが、これは200人に1人ぐらいいて、これも仕方ないと思うのです。でも特定の漢方薬に関してこ れはダメと言う事はあり得ないのです。例えば半夏瀉心湯は飲めるけれど、三黄瀉心湯を飲むと具合が悪くなると言うのは、これは合っていないのですよね。 合っていないから飲みたがらないのを、剤形のせいにしてカプセル剤で飲ませるということはとても危険なことです 合わないのを無理やり飲ませてしまいま す。お薬が合っていたら子供でも喜んで飲みます。子供のアトビーの薬等は、我々が飲んだらオェッというような味のものがあるのです。でも合っているときは 大抵は喜んで飲みます。僕のところなどは、例えば麻黄剤に柴胡剤に附子、紅参、黄耆、茯苓等を加えたりして全部で30gぐらいの粉薬になってしまう方もいますね。それでも合っているときは 結構喜んで飲んでくれます。合わなくなるとはっきり変だと言いますね。剤形での飲みやすさや飲みにくさではないのです。カプセル剤を開発しているメーカー に対しては、無理やり飲ませてしまうことになりますから、私は非常に批判的なのです。食べ物なのですから味わって飲むべきなのです。

先程も言った様に粉薬は 飲めるのに、この漢方は飲めないと言うときは、謙虚に自分の処方が間違っていると考えて、始めから診断を仕直さなければならないのです。僕はそうしていま す。飲めないと言ったら、「そうか、じや合っていないのですね。」と言います。

ところで私の講義を聞い ていて、8回目になりますが、漢方の診断は意外とやさしい かもしれないと考えますか?そうじやないですか。それでは本当は困るのですけれど。最終的にどういうことを目指しているかというと、実は皆さん毎日やって いることをやるだけなのですよ。この間から何故何度も望聞間切の話をしているかと言うと、そこを理解してほしくてやっているのです。毎日やっている事で す。事物や人物、そういうものを見て認識するということです。これを良く考えてください。これは皆さん聞いたことが.あると思うのですが、人物や事物をコ ンピュータに認識させようとしたら、とても大変なのですね。例えば指紋だけだったらまだいいのですよ。これが目の前にパッと人が現れて、これは下田憲とい う人物であるかどうかと言うことは、覆面していようがサングラスをかけていようが大体わかるでしょう。それは丸ごと見て感じ取っているのです。コンピュー タにそれをやらせようとして、髪の色、形、しわ、声の特徴等あらゆるものを記憶させようとしたら、おそらくこのビルぐらいのコンピュータを使っても簡単に 行かないと思いますよ。だからコンピュータによる識別システムと言うのはどこか一ケ所だけでやっているのです。指紋だとか声紋だとかね。例えば顔でやった なら顔を怪我したり、腫らしたりした場合はどうなるのでしょうか。でも人間が認識するのは簡単なことでしょう。ずっと話していることはコンピュータ的分析 をして覚えることをしているのですが、最終的に目指すことは、誰それさんですと一目見て分かるということです。誰それさんは鼻の形がどうでこうでという様 に、特に切診と言うのは細かく切り取つて差し迫って見るのですから、切診をあまり重要視していくと木を見て森を見ないということになります。そこでずーつ と分け入っていくと大きなとらえ方が逆に出来なくなって来るのです。

前にもチラッと言ったと 思うのですが、僕もまだそこまで達していませんが、目の前に患者さんが坐った瞬間に、その患者さんの五臓六腑のどこが犯されているのか、あるいはどういう 邪が入っているのか、それがパッと見えればそれで終わりなのです。やさしい病気の患者さんの場合、それが出来る場合もあるのですね。ほとんど患者さんが部 屋に入ってきた瞬間にその人の五臓六腑のどこがやられているかというのが分かる事があります。それが本当に全て出来るようになったら、神様の領域に行くの ですが、なかなかそうはいかないですね。患者さんが部屋に入ってきたら、僕は唯見ているのです。じっと見据えて、一番大きな問題だけ問診して、それから大 抵、脈を診ます。もう脈を診るまでに大体見当がついていることが多いのです。一回会ったことのある人の事は分かるでしょう。病気を見るということはそれと 同じ事なのですね。もちろん何回もそれを見ていないと分からないですが、でも100回 同じ病気を見たら、同じ病気の人が診察室に入ってきた時、あっと分かるのですね。そうなって行くために診察法から言えば切診からやって行くのです。そして その時にパッとお薬が頭に出てくるように薬物論をやっているのです。あくまで切診での脈診がどうのこうのとあんまりこだわってしまうと、かえって分からな くなってしまうのです。ごくまれに僕のところでも20人に1人ぐらいでしょうか、脈診とそれ以外の診断が違うことがあるのです。コン ピュータ方式でやると片方が(+)で他方が(−)ということは許されないですね。コンピュータはその場合判定不能にしてしまうと思います。でも全体が見え ていればそういう場合も診断は出来るのです。だからこれからもずっと切診の話をしていきますが、人間が人間をパッと見たときに認識できるように、病気の人 に接した時にどこが病んでいるか分かるように勉強します。

不内外因もありますが、 多くの場合、五臓六腑のどこに異常があってそれが病気を出してきているか、何の邪が入って体を損なっているか、そのどちらであるかが見える様に一生懸命自 分を養ってほしいと思います。

今回は桂枝茯苓丸からで す。桃仁、牡丹皮、赤芍、桂枝、茯苓です。桂枝茯苓は苓桂組として何度も出てきました。茯苓の一番大きな作用はやはり心を養うと言う事ですかね それこそ 脳を安心させるということですかね。桂枝はそういうところに気が上ってきているのをなだめるのです。だから桂枝茯苓丸という名前なのです。血の道の薬です ね。苓桂朮甘湯と同じなのです。桃仁牡丹皮湯とかそういう名前になってはいないのです。これは金櫃要略の薬ですから金櫃要略以前からある昔からの薬です。
 意味があってわざわざ桂枝茯苓丸とつけているのです。桃仁、牡丹皮、赤芍とそれぞれ微妙な違いがあるのですが、すごく格好良 い言葉で言えば活血薬ですね。当然これは攻める薬です。血の廻りが悪いのをひっぱたいて、さあ動け動けという薬です。動くだけの本来の血の強さを持ってい なかったら動きません。

牡丹皮は血に入った熱を 冷まします。これは非常に難しいのです。そとから入ってきた病いが血を犯しますが、少し深いところに入って犯している場合もありますし、逆に中から出た病 気が血に関係するところで、うつ熱と言いますか、滞って熱気を帯びている場合もあります。そういうものを冷まします。でも冷ます薬ですからこれも瀉薬で す。この附近、全部瀉薬なのです。ちなみに言えばこの赤芍についてですが、実際には日本ではほとんど白芍しかありません。というよりも、白芍と言っても日 本で出回っているのは完全には白芍ではないのです。白芍と赤芍の違いは根っこの皮がついているか、芯だけかの違いです。出回って市販されているのはほとん ど同じであまり変らないのです。厳密おそらく、赤芍と白芍の差は蒼朮と白朮の差と同じで揮発成分にあるみたいなので、エキス剤になっている場合、全然変ら ないのです。それから桂皮なのか桂枝なのかの問題もほとんど揮発成分が関係しているのですから、エキス剤にするとほとんど差が出ません。そして日本で出 回っている芍薬は芯だけのものがあったり、やはりちょっと皮がついていたりして、現実にはそんなに神経質に区別しても仕方ないのかなと思います。本気で煎 じ薬だけで使ってみるなら、やはり中国から入ってくるものは、はっきり白芍と赤芍を区別しており、手に入れることが出来ますので、それを使ってみても良い かも知れません。ただこの桂枝茯苓丸というのは四物湯の時にもちょっと話したと思いますが、血の道の薬で、血液の濃縮型に使う代表的な薬です。血の道の薬 は血液が希釈して行く動脈系の不足に使う薬と静脈系のうっ滞に使う薬、それとどちらにもよらない薬の三つに大きく分かれるのです。静脈系のうっ滞に使う薬 の代表が、この桂枝茯苓丸です。昔は多かったのです。実は最近はあまり見ないですね。

これはあまり良いエピ ソードではないのですが、大塚敬節が昔教えてくれた先生と一緒に歩いていた時に、大正時代ぐらいでしょうか、その当時どこかに一軒家を構えて囲っているい わゆるお妾さんという時代ですが、そのお妾さんとお手伝いさんの二人連れに会うのです。その当時、色白で細くて柳腰で、ちょっと押したら倒れそうな、そう いう美人が囲われることが多く、大抵そこにお手伝いさんがいるのですね。それでお手伝いさんを雇うお妾さんは自分より美人だったら困るものだから、どちら かと言ったら小さくて赤ら顔でころっと太ったような人を雇っていたと、それが昔のお妾さんとお手伝いさんのパターンだったらしいのです。たまたま外を歩い ていたときその組合せで歩いてくるのを見て、大塚敬節の先生は、お妾さんを当帰芍薬散が歩いてくると、その後ろに風呂敷包みを持って小間使いの女の子がつ いてくるのを、あれが桂枝茯苓丸だといったそうです。昔はそうだったのですね。血液濃縮タイプというのは昔はそうだつたのです。

でも今はね、若いご婦人 を診察してみると、当帰芍薬散タイプは美人とはいえないですね。かえって病的という感じですね。健康美ではつらつとしているのは、むしろこっちタイプ(血 液濃縮型)なのです。それも意外に桂枝茯苓丸はいないですね。桂枝茯苓丸タイプというのはお分かりのように、やはり血の滞りがあるものだから、本来、気が 血を動かし気が水を動かさし血が水を動かしますが、支配順番はそうなのですが、血があまりにも滞ると気も影響を受けてしまうのです。気が働いても血が動い てくれないものですから気が水を伴って上に上ってしまうのです。分かりやすくいえばイライラしたり、ヒステリックになったりする病態です。ところがこの桂 枝茯苓丸タイプは、いろいろな不平不満不足があった時代と違って、今の若い子は伸び伸び育っているので意外にいないのです。次に出てくる大黄牡丹皮湯証の 人がかなり多いのです。でも桂枝茯苓丸というのは一番基本です。通じ薬も本来入っていません。はっきりした下剤は入っていないのですが、桃仁はある程度通 じを良くしますので多少の便秘があっても効きます。でも、基本は本来の血の道症があって、気が上衝して桂枝茯苓で象徴される状態になります。それかあるい は打ち身、捻挫等で同じ状態になったときに桂枝茯苓丸証となります。

テキストにも書いてある と思いますが、男性は桂枝茯苓丸を飲むのは嫌がります。あまり良い感じがしません。でも打ち身や捻挫をした人は、その直後から出しても喜んで飲みます。私 は打ち身、捻挫のときは最初から桂枝茯苓丸をよく出します。そうするとあまりひどい状態にならないで良くなって行きます。それをやらないで痛み止めだけで 治療して、12週たってくるとよく桃核承気湯の状態になります。もう便秘状態ですね。話 を聞くと怪我をしてから23日目で便秘になったと等と言います。大体怪我をしてから、ひどい人は直後 から、遅い人でも23日目ぐらいから非常に強い便秘になります。そして痛みも全然去らないよう な状態になります。桃核承気湯等で下すとすっと楽になります。テキストの目標のところに書いてありますが、桂枝茯苓丸の人は皮膚が特有です。皮膚がガサガ サしていて、皮膚の表面まで血が行き渡っていないという状態です。ひどい場合はさめ膚状態になっています。そこまでなると桂枝茯苓丸加苡仁になります。桂枝茯苓丸 加苡仁というのは桂枝茯苓 丸の症状ではなくて、皮膚の状態を気にして受診する方に使う場合が多いのです。これは覚えるしかないのですね。さめ膚で皮膚が何となく黒いとか、何回か見 ると分かります。腹証については四物湯のところで話しているのでいいですね。あと経験的に、非常に太っている人や粘液水腫状態の人に大柴胡湯と併用して使 う場合もあります。桂枝茯苓丸と桃核承気湯と大黄牡丹皮湯とあわせて駆瘀血丸として瘀血一般に使っている場合もあります。

次は大黄牡丹皮湯です。 これは随分話していたように、桂枝茯苓丸とはほんのちょっとした違いなのです。駆瘀血丸中の三つの薬は皆微妙に薬味が違うだけです。桃仁、牡丹皮と、それ に黄芒組に冬瓜子が加わっているのが、大黄牡丹皮湯です。でも逆に言えば、現実に大黄牡丹皮湯証の人に接すると、桂枝、茯苓が入っていないということで、 そういう精神症状があまりないのです。先程言った様に桂枝茯苓丸証の人は、やはり少し何かあったらのぼせるかな、精神症状が出るかなという感じです。そし て桃核承気湯はもうちょっと激しいのです。承気湯ですから、もう気がめぐらなくて、本当にイライラしている感じが分かります。大黄牡丹皮湯の人は結構静か でゆったりとした感じを受けるのです。本当に最近の若い女性に多いです。スポーツマン的なゆったりとスポーツをやっていて大らかな感じの若い女性に大黄牡 丹皮湯証が多いのです。僕が漢方を始めた頃の文献には、大黄牡丹皮湯証はそんなに多くはないと言われていました。桂枝茯苓丸か当帰芍薬散か加味逍遙散か、 この三つに婦人薬というのは分れると言われていました。今、若い女性が来たら半分近く大黄牡丹皮湯の人のような気がします。それだけ体質が変ってきている のだと思います。別に僕の思い込みで出しているのではなくて、はっきりそうなのです。この大黄牡丹皮湯証の、昔からいわれているお腹の圧痛ははっきり右側 に来るのです。

血の道証は左に来ること が多いのですが、右のほうに来るというのは気の異常もかなりあるのでしょうね。解剖学的に考えると左に圧痛が来るというのは、やはり下行結腸系統に何か熱 や炎症を含んでいることが多いのですが、大黄牡丹皮湯証の場合はそれが上行結腸に来るのです。その意味はまだ完全には分からないのですが、強いて、血の道 とは又別の考え方で言えば、左がどちらかと言ったら肝と脾が争っている状態で、右側が肝と肺が争っていることが多いから、それで便秘にもなってくるし(肺 の子分の大腸の異常)、そういうことなのかなとも思いますが、まあちょっとその附近どうして右左に別れるのかよく分からないのです。最近、どうして若い女 の子が大黄牡丹皮湯の方になってきているのかずっと考えていますが、不足を知らないで、イライラしないで、ゆったり育てられるとこうなってくるのかなと 思ったりします。結果としてそのまま受け止めています。何故といわれると、ちょっと今答え切れないという状況です。昔は虫垂炎などにも使われていました。 更にもっと悪化した状態には、苡附子敗醤散とかが使わ れていました。軽症で、下剤を使ってもいいぐらいの虫垂炎に、抗生剤と併用して使うことは今でもあるような気はしますが、あえて腹膜炎をおこしかかってい るのに使うというよりも、大部分慢性の疾患で右の下腹部で丁度、桂枝茯苓丸と対象の位置に圧痛を示して、少し便秘をしていて、全体的には精神症状が軽い、 そういう方に使っているというのが実情です。

次は桃核承気湯です。こ れは上記の様に連続して話をしていると、あまりしやべることがなくなってしまいます。これは承気湯と言われる様に、承気湯類の特徴を持っています。気のめ ぐりが悪くて心下の附近につかえる様な感じがあって、便秘をしていて、激しくイライラしています。慢性疾患の時は、このような状態だったら桃核承気湯より も通導散を使うことのほうが多いのです。通導散の方がもうちょっと慢性疾患に効く成分を多く含んでいるのです。意外と桃核承気湯は慢性疾患に使うよりも、 さっき言った様に打ち身捻挫などの急性期の後で、非常に強い便秘と急拍症状を出すことがあるのですが、それに使うことのほうが回数としては多いのです た だ長く飲んでいるのはほとんど例外なく若い子です。ある程度以上の年の人で、桃核承気湯になる人はめったに居ません。若い子でイライラしていて、気の上衝 というより、本当に気の滞りがあります。気の上衝と気の滞りとはどこが違うのか、この附近は非常に難しいのです。桂枝茯苓丸の気の上衝は見た感じ上気して いるのもあるのですが、時々、衝脈に向かって突き上げてくる形で、常時ではないのです。下手に突っつくと爆発するという、さわらぬ神に崇りなしという感じ で接していればいいかなという面があるのです。承気湯の状態というのは常に気がめぐっていないので、大爆発もしないけれども、いつもイライラしているとい う印象があります。承気湯類は皆そうです。桃核承気湯は根底に血の異常があるのですが他の承気湯類は血に関係しないで、気そのものがめぐらないでイライラ しているという面があります。テキストに書いてある様に、これより強い大承気湯に婦人科薬を配合したのが通導散です。それと少腹急結の話はこの間したから 良いですね。通導散の場合はやはりいろいろな薬味がいっぱい入っており、効果が出るまで少し時間がかかります。桃核承気湯、桂枝茯苓丸、大黄牡丹皮湯の様 に、これぐらい薬味の少ない薬は合っているか合っていないかが一服で分かります。

合っていなければ一服で も具合が悪くなります。合っていれば一服でまず症状が楽になってきます。一服か二服飲ませて、患者さんがこの薬はいやだなと言ったら、自分の診断が間違っ ていると理解してかまいません。合っていれば本当にすぐ楽になってきます。そんなに時間のかかる処方ではありません。

次は半夏厚朴湯です。気 を動かす薬の一番の代表です。私のところに来られている山下先生はだんだん鋭い質問をするようになってきており、この間、気血水について聞かれました。今 僕が歩んでいる道を一番解っているのが山下先生だと思うのですね。まず始めに薬の勉強が大切です。山下先生も最初は薬だけの勉強をしました。実は僕も最初 は薬だけ勉強したのです。薬が出来なかったら針もへったくれもないのです。僕のところで鍼もしているのですが、鍼は治療とは考えていません。僕のところの カルテは一般的なものと同じ様に、左側に診断内容を書いて右側に治療や検査を書きますが、鍼は左側に書きます。鍼は診断なのです。診断し続けているので す。対症療法の鍼はほとんどしません。患者さんの気を動かすだけの鍼をするのです。それで結果として症状が取れれば診断は合っているのです。それを繰り返 しているだけなのです。診断が合っていれば確信を持ってお薬を使える訳ですよね(下田先生は、両前腕、両下腿等に、その人の中心の絡穴、補母穴、瀉子穴、 奇経の穴等に計810本、皮内鍼をします。一佐藤)。対症療法の鍼というのはやろうと思った ら出来るのですが、僕のところでは何か加えるような鍼をしていないのです。その人の気の流れ全体をとらえて、滞っているところは促進させ、よどんでいると ころは押し出し出し、行き過ぎているところは制御する、それだけをやっているのです。だから何も足したり引いたりしているわけではないのです。初診の人な どで非常に良く分かるのですが、ガックリとうなだれてきた人が、症状が取れる取れないよりも先に、鍼を置き終わった途端に背筋がシヤンと伸びて、目も伏せ ていたのがパッチリ開きます。本人に言わせると目の前がパッと明るくなると言います。鍼でそうしたのではないのですよ。針は何も足したり引いたりしない訳 ですから、本人の気が整っただけです。気の流れが整ったらそれだけでその人の中の自然治癒力が働きだすのです。気の流れが良くなると血の流れも当然良くな ります。気や血が滞っていると水も滞るし、気や血や水が滞ると一番出る症状が痛みです。例えばここが痛いと言っている時、その場所に鍼はしないのです。体 全体を調節する鍼をしたら、結果としてそこの痛みが取れてしまうのです。痛みはそこが悪いのではなくて、体のどこかに異常があるのだよと言うことで、そこ に症状を出しているだけなのです。だから気がついてみると、膝の痛みもなくなっているし、肩の痛みもなくなっている、よく考えてみると呼吸も楽になってい るということになります。人間というのはあまり器用ではないのです。めったに二つの病気をもっていないのです。ほとんど一つなのです。一つの病気をあちこ ちに出しているものですから、全体を調節したらほとんど全ての症状が取れてしまうのです。

不内外因が難しいという のは二つの病気を作っていることがあるからです。本来肺に弱点がある人がぶつけられて、腎に外傷を負ったりすると、二つの病気になってしまうわけです。今 私のところで治療している中で、一番難しいのは事故の後遺症です。いろいろな治療をして手術をされてしまっていたりすると、手術したところは当然良くなら ないのです。それはまあ当たり前のことですね。事故で指を切断した人が針をして漢方薬を飲んで指が生えてきますかと言ったら、当然それは無理ですね。それ と難しいのは本当に完全な老化現象と、完全な先天性疾患です。これは結構来るのですが、やはり難しいです。最近13トリソミーみたいな子が通ってき始めましたが、なかなか難しいです。や はり親からもらった生命力そのものがもう最初から少ないのです。その為に、その子は精一杯生きているけれども限界が来つつあり、症状を出しているのはやは り、やり様がなかなかないのです。年を取って大往生しようとして生命の火が消えようとしているのを、持ち上げる方法がないのと同じなのです。それでもそう いう子も 23人かかえて一生懸命苦闘しているところです。話を元に戻します。最初はと にかく薬の使い方をマスターする。薬を使えるようになる為には、やはり患者さんに触りまくってやっているとそのうちに術者の気が高まってきます。患者さん を見たとき薬がパッと思い浮かぶようになると、鍼をする位置もわかってくるのです。鍼は確認のためにするだけなのです この人はこの位置に鍼をすれば症状 が取れるはずだと解るようになります。患者さんは鍼治療と思っているのですが、こちらは全くそういうふうには思っていないのです。診断が間違っていると鍼 をしても全く症状が良くならないのです。それくらいはっきりしているのです。何度も言うように対症療法の鍼はしません。薬を自由自在に使えるようになった ら、黙っていても鍼はだんだんやれる様になります。そのうちお教えします。その順番でやって行けば良いのに、薬を全然覚えないで、鍼で症状を取ることばか りやると、軽い病気のときは人間の自然治癒力が働いて、薬が間違っていても何とかなるのですが、ある程度重い病気になると、薬が合っていないと体がグチヤ グチヤになるのです。薬の勉強を先にするという順番にやって行くことが大切です。もう十何年か前に旭川で56年シリーズで基礎編を話したのですが、山下先生はその時聴講して、その後 日本中をあちこち、東京まで勉強に行って満足できないで、やはり僕のところで習いたいと言ってきて、鍼も教えて、順番を一つ一つ踏んできているので、最近 すごく深い質問をするようになり、それで聞かれたのです。気、血、水というのはどこを流れているのだろうと。いろいろ言われていますけれど、気は経絡の中 を流れているのです。表面を流れていると言うのは嘘です。気はあらゆる所から出て、結果として表面を覆っているのです。表面を循環しているのではないので す。気は間違いなく経絡の中を流れています。経絡を実際つないでいるのは何処かと言うと脳の中です。経絡と言うのはこれだけ電子顕微鏡が発達しても見つか らないのです。神経のようにつないでいるものがあったら、電子顕微鏡レベルで見えないはずはないのです。経絡の流れというのは難経に書いてあるのですが、 大体一呼吸に30cmぐらいで流れています。太陰肺経から 出発して一日に二十何回全身を回ると書いてあったと思うのですが、それで考えると鍼の効き方は説明がつかないでしょう。そんなに悠長なものではないので す。対症療法の鍼でもそうですけれど、穴を取って置鍼するのはトータルで一分ぐらいですね。一分ぐらいで全身10カ 所ぐらいに置鍼してしまうのです。それで全身の症状が変ってしまうのですから、単純に経絡を伝わって効果が現れるとは考えられないでしょう。でも考えてみ れば経絡上の知覚神経は脳の中に向かっているのですね。おそらく脳の中では経絡がつながっているのではないでしょうか。西洋医学では人間の体は、手は手、 足は足と言うように全部バラバラにして診ます。東洋医学の世界では手から足まで縦につながっています。同じ太陰なら太陰、陽明なら陽明と名の付くものは全 て、手の指先から足先まで縦につながっています。経絡図を見れば分かりますね。そうすると荒唐無稽のような気がするかも知れませんが、同一経路に属すると ころというのは、脳まで辿っていくと、きっと一塊なのではないかと思います。だから肺と大腸が表裏なのです。肺と大腸なんて何でこんな遠いところが表裏な のかと思いますが、入口と出口で皮膚を通じて外杯葉に属するのです。腎と言うのはおそらく内分泌系と一体なのだろうと思うのですね。発生の段階で五臓六腑 と言われていたものはそれぞれ組で非常に近いところから細胞分裂を繰り返して分かれてきて、いまだに脳の中で繋がっているのです。経路上を気は流れている のですが、それらをつないでいる所は脳内だろうと思います。

血についてもいろいろな 事が書いてあります。実証しろと言われてもできないのですが、僕は血は血脈の中を流れていると言うことを現実に感じながら、毎日の診療をやっています。血 脈と言うのは血管です。これが自然です。物の本によっては気は体の外を覆っていて、血は経絡の中を流れているなどと書いてありますが、そうするとはてなと 分からなくなることになります。自然に考えれば良いのです。気は経絡の中を流れ、血は血脈の中を流れるのです。気血水と並べて考えるのは誤りであると言う 話はしました。気は生命エネルギーです。血はそれを支えている生命の基礎物質そのものです。水は非生命です。水には命がないのです。だから気や血は自ら生 命活動をするけれども、水はそれに伴って動かされているだけのものです。でも、血の大部分は水が成分になっており、体液も大部分は水ですから、結果として 非常に重要な要素ではあるけれども、水には命はないのです。それなのに気血水と、何か太陰、少陰、厥陰の、三陰、三陽のような感覚で言われるから混乱する のです。気は生命現象の一番根源です。最終的に気を病むから病気なのですが、本当にダメになってしまったら人間は死ぬしかないので、気は出来るなら病証を 現わすまいとするのです。だから気の病証が非常に強い時というのは本当に死ぬときなのです。それよりうんと軽い段階で他のところに下受けさせたり、ほんの ちょっと廻りが悪くなったりする、そういう病証の事が意外と多いのです。最終的には病気というのは気を病んでいるのですが、そういう中で非常に軽い状態で 気の流れが滞っていると言うのが、この半夏厚朴湯です。薬味を見ると全部そういう薬です。茯苓は小半夏加茯苓湯等の時、何度か話しました。

気剤の代表と言われたら 厚朴というのがピンと出てこないといけないくらい、本当に気を廻らす薬です。承気湯の廻らすというのと違うのです。これは話すと本当に難しいのです。厚朴 の作用は本当にちょっと滞っている状態を厚朴で廻らすと、それだけでさっぱりすると言うような感じです。そして蘇葉は表面で発散できないものがある時に、 その気を発散させるのです。蘇葉というのはシソの葉ですから、気持ちも発散させるので、非常に爽快な気分になる人が結構いるのです。最近、蘇葉を一番何に 使っているかというと、実はこう言う精神疾患ではなくて、夏場に向かって悪化するアトピーに使うのです。体表面まで出て来てジクジクになって滞ってしま い、発散しなくてかゆみが非常に強くなっている時に、蘇葉を出すとサーツと発散して、結構楽になる人がいます。消風散を出しておいて、 蘇葉だけを添えて、お茶のように入れて飲むだけでいいのです。半夏厚朴湯というのはそういう風に気の廻りをすごく良くするのです。そして大事なのは、この 半夏と厚朴の組合せを持っているものは、全部半夏厚朴湯の性質を持っているという事です。半夏厚朴湯そのものが入っていなくても、気を動がす代表的なこの 二つの薬が入っていると、半夏厚朴湯の意味合いのある作用を示します。半夏厚朴湯の意味合いの胸中炙臠があると言う事です。これはいろいろなことが言われ ていますけれども、はっきり訴える方もいます。ノドに梅干の種が引っかかっている感じで、飲み込もうとしても飲み込めなく、検査をしても何でもないという のが特徴なのです。胸中炙臠あるいは日本では梅核気と言います。西洋医学ではヒステリー球ですね。しかし、ヒステリー球と言ってしまうのはちょっと難しい のです。本当にヒステリー的であるものならば何か原因があって、その原因が無くなれば消えるはずなのですが、どうも違うのです。逆にそういうものを気にし やすい体質と言うものがあるのかも知れません。環境の変化がいくらあっても、胸中炙臠がある人は若いときからずっとあるのです。それがあるからすごく内気 になって、引っ込み思案になって、時々イライラします。他人にはあたらないのです。桃核承気湯や桂枝茯苓丸の人は他人に当たるのです。血が気を動かすほう が強いのかもしれません。半夏厚朴湯の人は気だけがうっ滞していて、意外に他人には当たらないのです。本当にヒステリーと言われる激しいものだったら、周 囲に当たるはずなのですが、いつも自分の中にしまいこみます。逆にこれ以上のひどい事になったら本当のうつ状態になってしまいます。自分の中に閉じこもっ て全然動かないという状態になります そこまでいかないで他人に接しているとき、すこし不安になったり、少しおどおどしたり、何かあると自分の中に引きこ もってしまう場合があり、話を聞くとこの附近(のどから上胸部)につっかえると訴えます。そして実は精神的なもので喘息発作を起こす人はやはり同じ症状で す。要するに精神的なもので、他人に当たるのではなくて、自分の中に取り込んでいって肺が損なわれてしまうと、喘息発作になって行くのです。その一番代表 的な状態に使う処方で、柴朴湯などというのが作られているのです。そして半夏、厚朴が組合せとして入っている処方にはいろいろなものがあります 全部この 特徴(胸中炙臠)があると思います。この附近に何かひっかかっているという感じの訴えがあったら、半夏、厚朴を含む製剤を使って、まず間違いは無いです。

ここで質問あり。(いつ も喉が痛い場合は?)

答 いつも喉が痛いとい う人の場合は違うこともあります。桔梗石膏の場合もかなりあります。この咽頭の異物感と痛みとはちょっと違うようです。本当に飲み込めない何かが引っか かっているような感じが異物感です。二陳湯は半夏厚朴湯とちょっと似ています。この附近は全部似ているのですが、お話しするのは実はなかなか大変なので す。この陳皮、半夏の組合せも、半夏、厚朴も、気の滞りという意味では同じです。ただ半夏厚朴湯は少し気が廻らないというぐらいの気うつなのですが、陳 皮、半夏の組合せになるとちょっと違います。陳皮と半夏のこの二つは古いものほどいいので二陳湯といいます。陳皮と言うのはみかんの皮です。でも取れたて で干したみかんの皮よりも、10年でも20年でも古くなればなるほどいいのです。半夏もそうなのです。古いものほ ど良いので、古きを尊ぶと言います。そして陳皮、半夏の組合せは、半夏、厚朴の組合せよりもう少しうつ的なのです。一応、二陳湯そのものを単独で使うこと は急性疾患では意外と少ないのです。ちょっと胃の調子が悪いという状態に使いますが、現実に二陳湯として単独で使用した経験はあまりありません。滞ってい るものをパッと取り除けばいい、そういうとき僕の場合は芍薬甘草湯で大抵済ませてしまいます。芍薬甘草湯で急拍症状を取ったら、あとは体が勝手に治してく れることが多いのです。二陳湯を使って急性の胃腸症状とか二日酔いとか、そういう症状を取り除こうとすると、それは出来るのですが、結構辛い思いをさせる こともあります。やってみれば分かる様にそういう状態で使うと、かなり激しく反応させるのです。例えば悪いものが入っていたら全部吐いてしまったり、その 悪いものが胃を通過していたら、激しく下痢をして、12時間の間トイレから出て来られないぐらいの状態になることもあります。そ の後さっぱりしてしまうのですが、その間は「死ぬかと思った。」と言うような激しい効き方をしますので、急性疾患にはこれを使うより、僕は大抵、芍薬甘草 湯を使って、あとは点滴をして様子を見ますが、その方がマシかなと思います。何度か使ったことはあります。最終的には良くなるのですが、ちょっと可哀想か なという感じです。二陳湯を最も使うのは五虎湯との組合せです。でもこれは数少ないのです。

五虎麦門冬湯の方は結構 多いのですね。慢性の咳が続いていて非常に痰が切れにくくなって、本当に顔が真っ赤になり、麦門冬湯の状態になって咳き込む。でも、麦門冬湯の状態だった ら、あまり炎症が無くて切れにくい痰があって咳き込むのだけれども、まだ炎症が残っていて、あるいは慢性炎症が続いていて咳き込むのが五虎麦門冬湯なので す。何で診断するのかといったら、これはまさに聞診です。だからなかなかお教えできません。本当に苦しそうな咳をするのですね。炎症が続いて、痰が次から 次に出て来て、そして痰が出ても楽にならないのが五虎二陳湯の状態なのです。咳き込むたびに湿性の痰が出る音が聞こえるのです。湿性の痰が出て、一応楽に なるのだったら小青竜湯です。痰が後から後から出てくるけれども楽にならないで、延々と咳が続いているのが五虎二陳湯の状態です。二陳湯というのは本来そ ういう薬なのですが、いろいろな処方に陳皮、半夏が入っており、この陳皮、半夏は先程の半夏厚朴湯よりもっとすごい作用があります。陳皮、半夏が入ってい るもので、いちばん有名なのは、抑肝散加陳皮半夏ですね。あと六君子湯、釣藤散、五積散等です。何か基礎疾患があって、だんだんうつ状態になるものに、陳 皮、半夏が非常に有効です。いろいろな処方で陳皮、半夏の入っているものは必ずうつ状態がある人に使うものだと理解していて良いのです。表に出ているかど うか分からないですよ。患者さん自身は胃腸が悪いと言って来るかもしれないですよ。頭が痛いのだと言って来るかも知れない、何となくいつも寒いのだと言っ てくる人もいるかも知れません。血圧がいつも変動するのだと言ってくるかもれません。

でもその根底にうつ状態 があるというのを把えろことが出来たら、陳皮、半夏の入っている処方を選んでまず間違いは無いのです。だからこれは非常にいろいろなものに使われていま す。二陳湯という処方をすることは多くないと思うのですが、この二陳組を含む方剤というのはこれから沢山出てきますので、大変重要です。

次は香蘇散です。この附 近は気に作用する薬ばかりですので、非常に難しいです。風邪薬としてももちろん使いますが、保険で認められているのは風邪薬としてだけですので、非常に苦 しい面があります。香蘇散の患者さんは診察する側から見ると強い症状が無い状態で、高熱を出している訳でもない、血液検査でCRPが上っていたり白血球が増えていたりする訳でもない、胸の写真をとっ ても変化はない、ひどい咳をしている訳でもない、でも意外に訴えが強いのです。微熱がずっと続くのですとか、食欲がないのですとか、何よりも頭が重いので すとか、体がだるいのです等と訴えます 患者さんにとっては結構大変なのです。面白いのですね。そういう風邪の時、西洋薬は全くお手上げですね。使う薬が 無いのです。どれか強い症状があったら、副作用が出ようが、あるいは冷やしすぎようが、何であろうが、例えば咳だったら咳を取ることは出来ます。熱だった ら当面熱を下げることが出来ます。微熱を下げることなどは出来ないのです。倦怠感を取ることなどは出来ないのです。

そういう風邪の時、これ を使うと風邪そのものが良くなった様な感じがします 太陽の中風とも違います。桂枝湯の状態は風邪のごく初期で、放っておくとだんだん入って来て、他の太 陽病とか太陽と陽明の合病として発症します。香蘇散の状態と言うのは全然そういう状態にならないまま終わることが多いのです。現実にはそういう風邪の方と いうのも居るのです。それからうんと風邪が遷延した時にもこの状態になることがあります。ある程度治ってもぐずぐず続いていて、何か強い症状、ターゲット となる症状が無いのです。例えば鼻がグズグズするとかそういうことも無いのです。ただ倦怠感だけ続きますが、本人は絶対風邪だろうと思うと言います。そし て現実にこれを飲むと良くなるということがあります。それから中医学の人達が温病という病気の中にも香蘇散証があるようです。温病というのは彼らの言い方 からすれば、非常に重い病気であるという印象があるのですが、中医学で言うその温病というのは、確かに香蘇散の証によく似た側面を持っているのです。西洋 医学的に見ると、何もたいした所見は無いのです。もちろん傷寒の方がはっきりした異常を出します。それで非常に強い症状を訴えている中で、香蘇散できれい に症状が取れてしまうものがかなりあるのです。だから、ちょっと特殊な、いわゆる普通の太陽病とか、そういうところになかなかはまりにくい風邪に、一つは 使います。もう一つ香蘇散の非常に大きな特徴は、慢性疾患に用いる中で、肝を動かす一番軽い薬だと言うことですね。肝気の異常というのはいろいろあって、 最初は廻らなくなるのですが、それを香附子で少し動かし、蘇葉で発散させるというのが香蘇散の作用です。だから肝炎にも結構使います。そして僕のところで 一番良く使うのは、リウマチの患者さんです。リウマチの患者さんは、圧倒的に肝に入るということを四逆散の時に話しました。肝に働く薬で一番強いのはやは り柴胡です。その次は竜胆ぐらいです。一番軽いのは香附子です。とにかく柴胡でゆさぶったら強すぎるという状態に香蘇散を使います。あるいは香附子だけを 出すこともあります。例えば痛みを和らげる苡仁湯に香附子だけを加 えることもあります。香附子は煎じなくてもそのまま服用しても良いのです。私はリウマチや膠原病に肝に働く薬を使います。

実はこれを解らせてくれ たのは皆さんも御存知の前の北大教授だった本間先生です。本間先生はリウマチの治療をするために香蘇散を使った訳ではなかったのですが、香蘇散で経験した リウマチの一例報告をしています。自分が治療していたリウマチの患者さんで、それまで消炎剤をいろいろ使って全然良くならなかった人が、ある時風邪をひい て来て、たまたま香蘇散を出したら、その後いわゆるリウマチ因子との全面対決が起こって、リウマチ反応が消えて、リウマチが完治してしまったという症例 を、10年以上前に発表されたのです。その時までは私もリ ウマチは肝に入っていると解っていたけれど、柴胡とか香附子や竜胆等怖くて使えなかったのです。ほとんどの本に使ってはいけないと書いてあります。実際中 途半端に使うと悪くなります。リウマチを治療していると、一年ぐらいの問に、トントン拍子でよくなる人もいるのですが、大部分の人は一回ドーンとリウマチ 反応や炎症反応が上がります。貧血もドンと来ます。それまではそこで怖じ気づいて引き返していたのです。でも本間先生の発表を見てから何となく、ああやは り肝は肝でよいのだと思い、肝の病気だからやはり肝で攻めていけば何とかなるのだということで、積極的に柴胡を含む製剤や竜胆瀉肝湯や香附子を含むものを 使い始めました。それまではごくごく控え目に隠れキリシタン的に使っていたのですが、その後は全例に意図的に、リウマチに限らず、肝経に入っている膠原病 には必ずこういう薬を積極的に投与して、そうして戦わせているのです。戦わせるのはなかなか大変ですよね。患者さんは、途中でくじけそうになります。でも 必ず良くなるからと言って、支えて支えて通わせます。やはり苦しくてドロップアウトする人もいるのです。けれど一年越してくれると、大体皆さんニコニコし て通ってきますね。この香蘇散というのはいつか切られて来るのかな、と思いながらずっとハラハラしながら使っています。保険病名は風邪しかないのです。一 応、慢性咽頭炎などとつけて使い続けているのですが、それこそ香附子と蘇葉をそのまま加えるような生薬末に切り換えてしまえば切られることはないのです。 向こうもどうして良いか分からないですからね。ただ生薬に切り換えるとコンプブイアンスが悪くなるし、QOLも 損ないますので、エキス剤で済むものはエキス剤でやりたいのですが、保険審査は医学的レベルでやっている訳ではなく、点数を下げたいだけですから、いつか 切られてきたらその時考えようと思っています。テキストに書いているように、特に御婦人はすごく喜んで飲むようです。「風邪気味になればいつもこれを飲め ばいいと思っているわ。」等と言う患者さんもいます。

半分は暗示もあるかも知 れませんが、それでも軽い風邪だったら、それこそ気に働くわけですから、気が改善しただけで、この香蘇散が治すのではなくて、自らの治る力が働いて治って しまいます。いつもこれを一回出したら飲み残しておいて、次の風邪の時に「ちょっとこれを飲んだら、治ってしまった。」等という人が結構いるのです。だか ら風邪薬としても非常に特殊なものですけれども、使い勝手のある薬です。これも古方の処方ではないのですが、なかなかいい薬です。

ここで質問あり。(香蘇 散と半夏厚朴組と陳皮半夏組との鑑別について)

答 え

そこを言われると本当に 難しいのです。半夏厚朴の組合せについてですが、半夏厚朴湯も蘇葉を含んでいます。

香蘇散(肝) 半夏厚朴 (肺) 陳皮半夏 (脾)

それに先程言った陳皮半 夏組でこれが一番難しいのです。半夏、厚朴は軽く気が廻っていない状態で、陳皮、半夏はもう少しうつ的になっている状態です。香蘇散は主がやはり肝なので す。そして、半夏厚朴はその人の中心になっているのは肺です。陳皮半夏はどちらかと言ったら脾です。何を言っているかと言うと、人間がうつ的になるという 時、ほとんど出てくるのはこの三つなのです。肝と脾と肺の関係なのですね。うつ的になる時、心と腎はほとんど関係ありません。

うつ的になる人を診ると きはこのトライアングル、例えば肝実脾虚肺虚、あるいは脾虚肺虚肝陽上亢を見ます。これはどこを出発点としているかで違ってくるのです。これをどう把える かというより、始めから肝の人は肝の人なのです。分かり易く言えば、始めからその人の生きている中心や病気の中心が肝にある人が、うつ的になってくると、 最初は香蘇散の状態になるのです。肺にある人はうつ的になると半夏厚朴湯の状態になるのです 脾にある人がうつ的になると、陳皮半夏になりやすいのです。 そうなる時に結果として影響を与えるのは何かと言うと、例えば脾の人であれば、脾を一番損なうのは肝が上るときなので、それは肝ということになります。こ れはどういうことなのかと言うと、脾の人は静かな人だと言いましたが、ひっそり生きていたい人が周りからストレスを与えられて自分の中の肝を緊張させる と、脾が損なわれてしまうのです。そうすると陳皮半夏の状態になります。肺の人は大らかに生きている人です。肺を養っているのは脾です(相生関係)。スト レスを受けて脾が衰えて、肺に充分栄養が来なくて、肺気が廻らないことももちろんあります。でも肺気が廻らない時というのは、ストレスもありますけれど、 やはり脾そのものの働きが何らかの理由で少し衰えたときに、肺に充分気を送れなくなって出てくる時が多いですね。

肝で生きている人はスト レスを受けやすいと言いますが、一方でストレスを楽しんでもいるのです。肺の人はストレス関係なしでゆったりやる人で、脾の人は一番ストレスを受けやすい のです。肝の人はストレスに反応しますが、適度にストレスを楽しんでいる人が多いのです。分かり易く言えば、ストレスがゼロになったら肝の人は生きる張り を失ってしまいます。いつも忙しそうにしているくせに、暇になると何だかだらしなくなるというのが肝の人です。脾の人はストレスがなくなると本当に安心し てゆったりとしている。肺の人は余程強いストレスがかからない限り、あまり関係なしに普通はゆったりと生きているのです。

むしろちょっとした環境 の変化のほうに弱いのです。ストレスそのものが肺を損なう時は、ものすごく重い時です。肺の人が大きな直接のストレスがかかると、自殺しかねないぐらいで す。これは本来は肺が肝を抑える(相克関係)訳ですが、抑えられる側から反発される(相侮関係)と、もっと重い病証になるのです。その附近になると、薬が どうだからと言うより、その人間の本質が肝の人なのか、脾の人なのか、肺の人なのかと言うことを見抜いて行くことが必要になります。それが今日最初の方で 言った見ると言う事です。ああこの人はこうなんだなと思うでしょう。それを日常的に診察室で見抜けて行けば、薬を選んで行けるのです。これを毎日やってい るのです。

ここで質問あり。

(肝の人、肺の人、脾の 人等どれぐらいの割合か)肝の人、肺の人、脾の人はおそらく3分 の1づつだろうと思います。でも現に私のところにおいでに なる患者さんからいったら、やはり肝の人が一番多いです。ストレス社会ですからね。次に多いのが脾の人です。肝の人はストレスで直接反応し、脾の人は肝に かかったストレスで脾がやられるのですが。この二つの方が多いです。
 肺と脾は本来太陰ですね。それから少陰の心、腎があります。割合から言ったら肝の人が一番多くて、肺と脾を合わせた太陰の人 は肝の人より少ないようです。但し、これは僕のところによそから来る人についてですね。地元の人をずっと診ていますと、だんだんお年寄りが増えてきていま す。(下田先生が東洋医学的治療をするので、地元の人は長生きし始めている。)90歳 を越えてもなかなか死なないでいてくれます。もうちょっとで100歳 になる人も出始めています。普通に正規分布を見れば多分3分 の1ずつになるのだろうと思います。しかし、僕のところに わざわざ遠くから来るのはストレスでバタバタして、それで肝がやられている人と、そういう肝でやられている脾の人がやはり多いのです。肺の人は喘息発作や アトピーの人ですね。少陰の人は遠くからおいでになってもだんだん来なくなります。逆に地元の人は多いのです。腎は老化現象です。心も生命そのものです。 ここが損なわれている人は治療していてもだんだん歳をとって行って来なくなったり、あるいは生まれつきの病気だったらわざわざ遠くまで通ってきても、そん なに目に見えて良くならないなということで、ある程度は元気になっても、その附近であきらめておいでにならないので、よそから来る人はやはり一番少ないよ うですね。でも日常では多分対等にあるのだろうと思います。

ここで質問あり。(生き る中心が変ることはあるのか?)

答え 

変り得ます。でも変る人 の方が少ないです。やはり途中で変わって来るというのは、よくよく丁寧に見ると、その人の人生観を変えるぐらいの何かエピソードがあることが多いですね。

七情という概念がありま す。非常に強い悲しみだとか、すごく怒り狂うとか、すごく恐れおののく様な事があったら、その人の中心が変ることがあります。生きる中心というのは前にも 言った様に一番弱いところがそれですね。今まで総体的に五臓の中で肝が一番弱いという状態でいたのが、突然腎が損なわれてしまうと、腎に中心が移るという ことがあるのです。ずっと治療している人の中心が突然変ってしまうというのは、一年に数人しかいません。それぐらい少ないです。若い女性などは、やはり結 婚問題等でもめたりすると変ることがあります。あるいは中年の御婦人は大体旦那さんとの不和と言う事で変ることがありますね。それから事故に会うと経絡も 臓腑も切断されてしまうから、ガラッと変ることもあります。又少しづつ話して行きます。質問されると答えます。質問がないと自分の中にあるものを出すのが 難しいので、質問は大歓迎です。今日のお話しはこれで終わらせていただきます。どうも御静聴をありがとうございました。